久遠寺について
久遠寺
法華宗 霊鷲山 久遠寺(通称 浜の寺)
久遠寺の歴史
久遠寺は1300年以上もの歴史があり、京都本能寺を本山にもち、日隆聖人を開基とする法華宗の寺院です。
日隆聖人は西国への(*1)弘通(ぐづう)のために、尼崎を出発され、途中兵庫津の岡方の名主正木屋(まさきや)という宅に寄宿されました。後日西国よりの帰依再び正木屋へ立ち寄ったところ、主人が日隆聖人が出発の際に忘れていかれた草履を大切に保管しており、お返しされました。
よって日隆聖人は正木屋に正直屋の名を送られました。正直屋は日隆聖人を伴い、菩提寺である久遠寺に赴きました。岡方は当時天領であり、寺院がここに集中してありました。
久遠寺は約1300年前、行基が開いた真言律宗の寺でありましたが、妙顕寺第二世、日像聖人の御弟子、大覚大僧正(たいがくだいそうじょう)の(*2)巡錫(じゅんしゃく)によって法華の寺となり、妙顕寺の末寺となりました。ここで日隆聖人と住僧の定林坊日祐師(じょうりんぼうにちゆう)とが七日七晩にわたり(*3)法論し、ついに定林坊日祐師は数珠を切り、日隆聖人に帰依して、久遠寺は妙顕寺末から法華宗に転派しました。当時には嘉吉二年(1442年(室町時代))と伝えられており、以来日隆聖人を開基と仰ぐ、(*4)本門八品のお題目を弘める有力な道場となりました。
当時は海岸が今よりも陸に入り込んでいました。久遠寺の現在の地名は兵庫区門口町(もんぐちちょう)ですが、もとは三川口(みかわぐち)と言いました。これは、このあたりが河口に近かったことを示しています。兵庫津は、中国、四国、九州各地より近畿地方への物資輸送の終着地として、当時の海上交易の重要な港であり、三川口はその中心でありました。
久遠寺はこの三川口の中心に位置し、古来より「浜の寺」と呼ばれ、日隆聖人開基の本門八品のお題目のお寺として親しまれてきました。
第二次世界大戦中には、神戸大空襲により本堂全伽藍(がらん)が消失しました。
戦後焼け野原から先代住職、檀信徒が一丸となって現在の近代的な昭和本堂が建立されました。
[仏語解説]
(*1)弘通…仏教が広く世に行われること。また、仏教を普及させること。
(*2)巡錫…《錫杖(しゃくじょう)を持って巡行する意》僧が、各地をめぐり歩いて教えを広めること。
(*3)法論…仏教において、教義の異なる宗派の間で宗義の優劣や真偽をめぐって行われる論争。 宗論や問答ともいう。
(*4)本門八品…法華経本門の従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第15から嘱累品(ぞくるいほん)第22にいたる八章を「本門八品」と呼びます。この八品にはわたしたち末法に生を受けた者が受持すべき御本尊と、信心修行のあり方が説き示されています。
日隆聖人像
歴代上人御廟所
久遠寺歴譜 石碑
【久遠寺とご縁ある、寺院様・企業様】 (順不同)